素敵な事、一見遠い事でも御礼が出てくる気持ち。

この間、『ちよだニャンとなる会』総会にちびっと出席させてもらった時、同じく参加されてた方*1に、猫四方山話の中で、猫を保護してくれて「ありがとうございます」と言われたーぃ
*−−*


いやいや、私のしている事でして、でも気持ちが解るけど、けどこっちの事ですから、と思いつつ、


言うなれば、自分から遠い事、がそうでなくて、猫の気持ちで御礼が言える、って言うか、グローバルな視点で感謝出来る事は、とても素敵でいいよなぁ、と、これはひなさんからも言われた同じタイプの御礼なんですが、いいよなぁ、とまたまた思った訳です。


いつもやっぱり心掛けている事だからこそ、自然に出る感謝の気持ちなんだと思う。


それに比べて、弟ども*2と来たら#ワクチン切れるわ、預かりに関してお任せだわ、もう、何か会社の連中と五十歩百歩なんですけど#
いくら身内でも、その内ブッチ切れそーで怖いです、自分が!!






あー、素敵な御礼の気持ちで、明日を迎えたい、祝・一般市民バズーカ輸入解禁ー!!的なスパイスと共に(激爆)



「鳩を売る者たちに言われた。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」(ヨハネ 2)

 イエスが、エルサレムの神殿に入られた時、牛や羊や鳩を売っている者や両替している者でごったがえしているようすを見て、祈りの心がないのを嘆かれ悲しまれたのです。自分たちの願いのために、犠牲になる動物たちへの思いがないのに。だから、人間の願いに、愛を注がれる神、イエスが来られても、誰も気づかないのだ。
 かつて、イエスが赤ん坊の時、そのエルサレムの神殿に母マリアに抱かれ祝福を受けた時、鳩がイエスの代わりに犠牲になりました。「わたしのために、死んでくれて、ありがとう。」
 小さなものに目を注がれ、いつくしまれるイエスの愛のまなざしの原点です。その心から、有名な讃美歌が生まれました。「 His Eye is on the sparrow 」。かれの目は雀のうえに注がれん。
 すさむ悲しみの今日、この讃美歌をこころから歌い、祈りの心を取り戻したいものです。
ラファエル・M


ソース:甲子園教会 日本廿六聖人 聖フランシスコ吉

教会人でも、動植物に対して、“主、神の被造物、作品”という視点が無いバカは少なくない。

不勉強なままで接し、不具合が生じても責任を感じない。

それだから、『かの日、主イエスが来られても、気がつかない』

なんて事が無いように、ああ、ぞっとする;

*1:猫マンガが会報に載っていて、そのマンガを提供されてた♪

*2:弟+弟カノ