原爆開発:女性科学者ジョアン・ヒントンさん初来日 原爆ドームで絶句

毎日新聞 

原爆開発:女性科学者が初来日 原爆ドームで絶句


初めて広島を訪れ原爆ドームに向き合うジョアン・ヒントンさん=広島市中区平和記念公園で2008年8月5日午後1時40分、小松雄介撮影

米国による第二次大戦中の原爆開発計画に携わった女性科学者、ジョアン・ヒントンさん(86)が初来日し5日、広島を訪れた。

数万人の命を一瞬で奪った科学に絶望して米国を離れ、中国へ渡って60年。科学者であることを捨て、酪農に従事したが、

苦悩がなくなることはなかった。

「自分がつくったものがどんな結果をもたらすのか。それを考えず、純粋な科学者であったことに罪を感じている」。

しょく罪の意識から、広島訪問をかねて望んでいた。【平川哲也、黒岩揺光】



 「オーフル(awful、ひどい)……」。5日午後、原爆ドーム。ヒントンさんは鉄骨がむき出しの最上部を仰いだ。

ドーム脇の英語の説明文を一語一語かみしめるように読んだ。「私はただ、実験の成功に興奮した科学者に過ぎなかった」

 1945年7月16日、米国南西部のロスアラモス近郊。立ち上る人類初の核実験のきのこ雲に、ヒントンさんは胸を躍らせた。

原爆を巡るドイツやソ連との開発競争に打ち勝つため、42年に米国が始めた「マンハッタン計画」。最大時で12万9000人を動員した

原爆開発計画が結実した瞬間だった。

 「科学を信じていた」。大学で物理学を専攻した21歳のころ、放射線の観測装置を完成させた才女は44年春、

請われるまま同計画に参加した。ヒントンさんはプルトニウム精製を担い、全資料閲覧と全研究施設立ち入りを許可される

「ホワイト・バッジ」を与えられた。約100人しかいなかったという。核実験の2カ月前にドイツは無条件降伏しており

「研究目的の原爆開発であり、使われないと考えていた」。



 しかし8月6日。広島上空で原爆がさく裂する。新聞で原爆投下を知ったヒントンさんは声を失った。

「知らなかった。本当に知らなかったの」と、まゆをしかめて話した。



 戦後は核兵器の使用に反対する動きに加わった。48年、内戦が続く中国・上海に渡った。内モンゴルに移住し酪農を営んだ。

消えた足跡に、米国の雑誌は「原爆スパイ」と書き立てた。

健在が知られたのは51年、全米科学者連盟にあてた手紙が中国の英字紙で報じられたからだ。それにはこうあった。

 <ヒロシマの記憶−−15万の命。一人一人の生活、思い、夢や希望、失敗、ぜんぶ吹き飛んでしまった。そして私はこの手でその爆弾に触れたのだ>



 あの朝から63年。今なお後遺症に苦しむ人がいる。今なお米国を憎む人がいる。「なんと言えばいいか……」。ヒントンさんは絶句し、宙を仰いだ。

ソース:F姉妹の日記より
http://mainichi.jp/select/today/news/20080806k0000m040146000c.html

やっぱりね、こうして何らかの形でリレー、無駄じゃないと思うんだよね。


WEB記事もね、人もね、一期一会。

神との出会いも、オロソカに出来ない。


人の心に、国境や民族は、最終的には無いんだと思う。