靖国問題とキリスト教徒とキリストと。

第三章 宗教の問題――神社非宗教の陥穽

 首相が靖国神社を参拝するたびに、その行為を「違憲」とする提訴がなされてきた。裁判は民事訴訟の損害賠償請求という形を取らざるを得ないので、原告の請求はことごとく退けられているが、判決文の中では首相の参拝行為を「違憲」、「違憲の疑い」と判断したものが複数あり、「合憲」の判断が一つもないことは注目に値する。こうした中で、首相や天皇公式参拝を定着させたい人の中から靖国神社を宗教法人ではなく、「特殊法人」化して、憲法政教分離原則に抵触しないようにする試みがなされてきた。
 靖国神社自身の反対によって実現しそうにない話ではあるが、実は、戦前・戦中において、神社神道は、「国家の祭祀」であって、他の宗教とは区別されたものであった。仏教やキリスト教に一定の「信教の自由」を与える反面、神社神道はどんな「宗教」を信じる者も日本国民である限り、その祭祀儀式を受け入れなければならないということになっていたのである。
 1932年、熱心なクリスチャンだった二人の上智大学生が靖国神社の参拝を拒否した事件が起こり、反カトリックキャンペーンに発展した。
上智大学はこの事件で存亡の危機に瀕したが、結局、全面屈服と引き替えに危機を逃れた。学長以下全校謹慎したうえ、学長・神父・学生がこぞって靖国神社に参拝し、『忠君愛国の士を祀る神社に参拝することは、国民としての公の義務に関わることであって各自の私的信仰とは別個の事柄であることを了解』したと文部省に伝えたのである。」
 日本のキリスト教会はこのような見地をもって、カトリックプロテスタントもこぞって、その後むしろ戦争に積極的に協力していくことになった。伊勢神宮に参拝して天照大神に教団の発展を祈った日本基督教団プロテスタント系)は、神社参拝に反対する朝鮮の教会に赴き、下記のように述べて神社に参拝するよう弾圧を受けていた牧師らを説得した。


「諸君の殉教精神はりっぱである。しかし、いつわが(日本)政府は基督教を捨て神道に改宗せよと迫ったか、その実を示してもらいたい。国家は国家の祭祀を国民としての諸君に要求したにすぎまい。[中略]明治大帝が万代におよぶ大御心をもって世界に類なき宗教の自由を付与せられたものをみだりに遮るは冒涜に値する。」(「福音新報」1937年)


「『国家の祭祀』と『宗教』の分離は、日本のキリスト者が朝鮮のキリスト者に『転向』を迫る切り札にもなっていたわけである。だが、それにもかかわらず、朝鮮キリスト者の神社参拝拒否運動は続けられ、総督府の弾圧によって投獄されたキリスト者二千人余りの内、約七〇人が神社参拝拒否による者で、そのうち五〇人が獄死したと言われる。」

 「国民としての公の義務」と「各自の私的信仰」を区別することで、宗教の自由は守られるどころか、「宗教」の「国家の祭祀」への完全吸収という事態に帰結してしまった。これがどれほど無残でおぞましいものかを示すのが、下記の「靖国の英霊」と題する日本基督教団の論説である。


「今日、国民の生活は捧げられた血によって護られているのである。」
「この血の尊さは英霊を神と祀る日本の伝統のみがよく知る所である。国に捧げられた血を尊しとする精神は他国にもあるであらう。(中略)然しこの血に最高の意義を見、祭神と讃へる精神は、我が日本をおいて外にはない。」
「血の意義の深さを伝統として有した初代日本基督者が、キリストの血の意義に初めて触れた時心躍ったのは当然である。キリストの血に潔められた日本基督者が、護国の英霊の血に深く心打たれるのは血の精神的意義に共通のものがあるからである」(日本基督教新報(1944)より)」 


(今日の日本のキリスト教会は、戦時中のこのような戦争協力を深く自己批判し、平和運動の中で最も精力的な部分の一つとなっていることは申し添えておかねばならない。それにしても、教義的に最も神社信仰に相容れないと思われるキリスト教がこのような論を展開するまでに至るとは、「日本の伝統」や「愛国心」、「国民としての公の義務」を無批判に受け入れることの恐ろしさがつくづく実感される。そして、反動勢力がどうしてそういった観念にこだわるのかもよく理解できる。)

 靖国神社は宗教ではないという見地は、神社だけでなく政府においても、戦後一貫して存在している。1969年にキリスト者遺族の会12人が合祀取り下げ要求をした際に、神社側は次のように答えた。


靖国神社憲法にいう宗教ではない。日本人ならだれでも崇敬すべき“道”(道徳)である。靖国神社のこの本質と祭祀の内容は、戦前も戦後も、また将来、靖国法案が成立して国営化されたあとも全く変わらない。」
キリスト者も偏見を捨てて、和やかに、宗派を超えて、国のために忠義を尽くした人びとを祭るべきではないか。」


 1978年8月15日に福田赳夫首相が靖国神社に参拝したときの安倍晋太郎官房長官の発言においても、靖国神社は「宗教を超えた」社であり、神道を信じるか仏教を信じるかを「超えた立場で」靖国神社の参拝を続けている、ということが表明されている。

書評『靖国問題高橋哲哉
ちくま新書
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本当言うと、解体、分解、破砕、壊滅させる事でしか、償えないものってあるし、

日本基督教団なんてのは、その典型だと私は思っている。

反省文みたいなペラが、15円だったか、30円だったかで今だ販売されていますが、カンッゼンに更(更地)にして、再度ネオ教団として構築した方が、本当に清々しく気持ち良く、潔い言動、と思いますね。


キリスト教団ですら、この体たらくですからね、イワンや一般中小企業なんて、3年でもグダグダ、老壮青がどーのこーの、言い続け言い続け、見苦しいのは当然と思えるンスキー。(笑・あ、こっちの事です)←この風呂、こっちもクソも無いじゃん#


ここで、キリスト・イエス様を、天皇の下に置いた罪は巨大。

小石師は、天皇家継続派だけど、綿は完全撤廃派です。

それから、富士山頂の神社、アレも


超 爆 破


希望ですから(笑)

結局、日本は信教の自由、っても、さり気に何気に、神道を押し付けているワケですよ。*1


まだまだニポン・クリスト教、ダメダメアルヨ〜(by北京Bloodyオリンピック・バージョン)

*1:仏教は、神道と習合があるので、ここでは内包済みで。