考察『デスノート』−オノレの立場を存分に利用しつつだな(笑)−
大した事ではない、気が付いた事。
ここ最近、デスノ、『デスノート』を見終え、記事を書いている事、
とある質問板に、関連クェスチョンを掲げている事などの都合上、
何やかや、挙げてみよう。
この作品は、ファッショナブルな観点からか、単に生死を扱っているからか、やたらキリスト教的モチーフを作中に散りばめているのだが、当のクリスチャンである私は、最初からそれに対しかなりの違和感を感じていたのだ。
先頃、その違和感の正体が判明〜。
なじょしてソコでピンと来たのかはワカランが、
OPで、南空(みそら)ナオミが、キラ(=月<ライト>)に殺害された恋人レイ・ペンバーを、ピエタ宜しく抱く1ショットがある。
ここでハタ.と気が付いた。
そうか、そうか、これだ。
『SEVEN』や『Millennium』と違い、キリスト関連のモチーフを使っていながら“キリスト教の骨格を感じさせない”のは何故か。
それは、キリスト教なる本質を理解せずに、「上辺だけの猿真似」になってしまっているからだ。
キリストに出会っていない者が、キリスト教をイメージで描いている、
その違和感だ。
これは奇しくも、小石師の言う
『日本に本当の悪魔主義は根付かない。なぜなら、悪魔主義とはキリスト教を冒涜するものであって、キリスト教の何たるかが解っていなければ、その目的を果たしようが無い』
という事に通じる。
幾ら「格好良さげ*1」だとして、キリスト教を導入しようにも、その信仰、その本質、その意味する処、その結論を己のものとしていなければ、
外観−この場合“ピエタ像”−だけを、トレースするだけしかない。
勿論、製作者側には当初から深い意図や、キリスト教の何たるかを組込むつもりは無いだろう。
ライトがあたかも『囚人に解放を告げる救世主』のように描かれていたり、
ここぞと流れるBGMが幾ら『キリエ・エレイソン』からヒントを得ていようとも、<黙示録>に対する、無意識下の「しかり」、肯定、恐怖、その向こうにある希望が無い事には、
『そこはかとなく全体が薄く絵空事と』
を匂わせてしまうのだ。
私には!
少なくとも、先に挙げた2作品は、堕ちたとは言え、長年キリスト教圏で生きる人種の、『キリスト教の宣べ伝える事への肯定(或いは、肯定した上での否定)』を含んでいる。
作品の随所で、それが滲み出ている。
残念ながら、上辺だけで良い、という人々には丁度いい塩梅なのだろうが、
キリスト教的モチーフを、未信者が使うには、やはり無理がある、
キリスト教の抱えているものが、ある意味『余りに大きな事』なので、悪戯に引用すると返って浅薄さを醸し出してしまうのだ、
違和感の正体…
と言う何だ言わずもがなな結論だヨ!!
ナニコレ!(▼A▼)
あのですね、ライトがイイ男なので、えー、フィクションとしての楽しみをだな(以下略)
*1:否定しようと、人は聖であり、光であり、善であり、希望である神に魅かれる存在だ