神は愛です。
会社から帰宅途中の雑念記;
去年の11月末に、老猫ミカエルが昇天したんだけど、まっ、
『ミカエル』なだけに
その子は拾った時点でガリガリの身体、(検査では)アバラがバキバキに折れたまま固まってて、内臓は肺までせり上がっており、牙は1本を残すのみ、他の歯もあったり無かったり口内炎だったり、片耳裏からは血がタラタラ垂れているし、にも拘らず、ガリガリ掻くし、毛並みはバサバサかつペタペタで、
見るからに、イワユル“きちゃなーくて”“ボロッボロ”!だったのだけど、
つくづくと、私はその老猫を通して、
“愛する”という事が一体どういう事なのか
を学ばせてもらった。
つまり、『愛する』という事は、
『愛すべきところが全く無いにも関らず、愛おしい』
という事だ。
少なくとも、私にとっては。
キリスト・イエスが、神が、腐れマインドの人間−私−を、見捨てず離さず、呆れ返るほど取るトコ無いにも関らず、愛してくれた、その意味が今なら解る。
それこそが『愛』なんだ!!
えっと、実はもっと厳密な定義を、其処彼処にせねばならないんだけど、メンドクサイ。(え)
細かく注釈入れると、逆に自分のマインドとずれる気がするし、“解ってもらいたいから”書いている風呂じゃない(笑・喧嘩上等、って?もう、トシ幾つよ)←ひぃ!;
最初こそ戸惑ったものの、私世界では、今やミカは第3の天でも超絶ベスト・キャットな訳ですよマジでー。←※放っておいてあげよう
訳アリで、
親兄弟居てても、或いは、本人の資質とかで、ナカナカ『愛する』って事が解らない、って人も一度でいいから
「愛する、という事がどういう事なのか、どうぞ教えて下さい」
と、神に祈ってみなさいよ。私解らなかったんだよ。
神は聴いて下さる。
私は祈りのまま応えられた。
“猫如き”に教わるように、神は仕向けられたのだ。
それは私が一生涯、
どんな小さないのちにも遜って、膝を付いて仕えられるよう、
責任持って支配出来るよう、
謙遜と共に教わった答えだ。
でもゴキブリは叩き殺すよ。 ぶち壊しー