韓国キリスト教の正体、の一面(これで全部な訳無かろう#)

韓流キリスト教が、純然たる「キリスト教信仰」か、皆がそうか、と訊かれれば、


これは日本国内は元より、世界中のクリスチャンをも一人づつ天秤に掛けるべき問題
なのであるが、事この事件繋がりで、今は韓国兄弟姉妹だけを俎上に上げて言わせてらうと、)


「韓国のキリスト教信仰は、同時に“韓国教”の熱心な信者である事も多い」


と言わざるを得ない。
間近で彼らを知った者の、これは正直な個人的感想だ。


人は神と、神以外のものとに、同時に仕える事は出来ない。


だれも、二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなた方は、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。”<新約聖書 マタイの福音書 6章24節>


これは、富に対する貪欲さを戒めているのだが、だけでなく、富の部分には、<>以外の、<>から目を逸らさせる全てを当て嵌めて適用出来ると思う。


韓国兄弟姉妹が<>に熱心でありながらも、<国>に心酔している事、


残念ながら韓国政府の教育方針の一環で、『韓国 as No.1!!』と幼少からの刷り込みであり、
この呪縛と言ってもいい 『もう一つの教え』 は牧師、教育者であっても容易に払拭出来ないものらしい。


観察すればするほど、 『韓国人であり、クリスチャンであれば言う事ナシ』


という、いつかどこかのユ○ヤ人のようなテイに陥っている節があるのだ。


私は彼らの、『子供のような、素直な信仰』も見て知っているので、


それが真直ぐに、神だけに向けば、


愛と赦しを説くキリスト教を信仰しながらも、


日本人を憎む、嫌う気持ちが払拭出来ずに、来日して日々悶々と苦しむ、


等という悩みは氷解されるんじゃないのかな、と思ったりするのだよ。