食前の祈り、共に祈る祈り、牧師の権威、とかナントカ(笑)
先日、礼拝後に軽く茶話会とゆぅ名の交わりがあったんだけど、食前の祈りに私は牧師先生に祝福を込めた食前の祈りをしてもらいたかったんだけどね!!
でも、敬愛して止まない(爆・病まない?)小石大魔神が
「衆目の中で祈るのは………」
みてーな事言って、イワユル
“子羊の祈り”
になっちゃった。
子羊メェメェ、仔猫はニャー!
つまり、「各自めいめいに祈る」って事なんだけども、いつも思うんだけど、
他人の目を気にする位なら、クリは素でキチガイの集団に他ならないから、マジで。
言いたい事が山程あるので、上手く纏るか、いつもながらの言いっぱなしでオワルのか判らんが、取り合えず行ってみよかっ。
1)ぶっちゃけ、余程の大人数で、その端の人にもちゃんと聞こえる位の大声ででも祈らないと、ちょっとやそっとの人数による“共に祈る祈り”なんて
誰も注目しとらん
ですよ。それこそ自意識過剰ってヤツで(苦笑)
2)日本の牧師はステータスが一般に低いから、天から委ねられている、自分に着せられている「権威」について、甚だ軽く考えて、行使する事も少ない。
私は今まで、日本クリ教育を受けたと思しき牧師先生方から、10数年の信仰生活の中で受けた祝福がホンの数える位の回数しかない。(※礼拝後の祝祷を除く)
ヘタすると、カトリックの神父様方から受けた祝祷の数と、どっこいどっこいなんじゃないか?(汗)
なぜ、
「事ある事に、カワイイ(プッ)信徒たちを祝福してやろう!」
という気持ちが無いのか、理解に苦しむ#
3)衆目の中で、キリスト・イエスの御名で祈り、共に食卓に与る、という恵みこそ、無言の路傍伝道と思っている。
駅の出口でトラクト持って待ち構えられるより、よっぽどいいと、未信者だって返って感謝だよ(ぇ)
(でもトラクトは配るよ・笑)←懲りる位なら元々クリになるか
4)何よりも、“祈る”姿は美しいんだから、悪霊の器として選ばれた者で無い限り、ある種の見る人の心を打つんだよ。
だから、ナゼしない!!?
それは、今日の日本の平均的信仰が事ほど然様に
「消極的で」
「無関心で」
「役に立たない」
シロモノに成り下がっている証左なのだ。
役立たずで、塩気の無い塩的信仰なんて、そりゃ人前で表明されても困ります!
(アレ?)
目を擦る風食前の祈り
ある大学生クリスチャンが学食でランチを食べる時、食前の祈りをしようとしたが、
彼は人目を気にして、手で軽く目を擦り、その間短く祈ったのだった。
食べ始めた彼を、クリスチャンである事を知っている未信者の友人が、
「あれ、食前の祈りをしないのかい?」
とからかい気味に尋ねたので、
「ちゃんとしているから大丈夫」とだけ答えた。
主の前に立った時、彼に対して主はこのようにして見せた。
手で軽く目を擦り、
「お前はあっちだ。あっちへ進みなさい」
主の擦った手の指が指し示したのは、左側の列だった。
ちゃんちゃん♪
最後まで残るのは、ホンモノだけ−信仰に国籍はナイ−
よく○○風とか、△△流、って、信仰の場でも話題になるけど、多くは悪い側面を指して言っているね。
お国柄、というものが、
「バックグラウンドが影響を及ぼす人間なる存在」である限り、どんな人にも出るんだけれど、
何にせよ、本当に正しいものが残されるべく、今や“淘汰の時代”に入っているような感じがする。
だから、今まで自分が学んできた、あるいは、信じてきたやり方に執着せず、柔軟な姿勢で、でも蛇の賢しさをもって、本当に主の望まれる事、主の願いは何であるかを、掴み取らないといけない。
掴むで終らず、絶えず分け与えられるように…
でも、異様な頑なさを見せる人も、益々増加傾向にあるよなー。
やっすい毛皮、ファーにはそれなりのワケがある−竜の国、中国・毛皮産業−
http://www.petatv.com/tvpopup/video.asp?video=fur_farm&Player=wm
上手く動作しないようなので、直接
へ飛んで下さい。
最近、激安価格でファー、毛皮類が手に入るけど、要は原価がそれだけやっすい、って事で、
やっすい原料産出国ゆったら当節決まっているんですよね。
こういう事で糊口を凌がないといけない、という事、日本だって憐れんでいられないよ。
と言うのは、北朝鮮や中国があそこまで堕ちているのは、“生ける真の神”を否定しているからであって、日本だって、堂々たる「神道バンザイ」の国なんだから。
(※私は今、皇族の扱いに対して言っている。何かに言ってても、天皇に“霊的”始まっているのだ、日本は。イスラエルの影、説もあるらしいが、私は切捨て・笑)
話を元に戻す。
確かにリアル・ファーと、フェイクは、クォリティの差が月とスッポンだけれども、
近年の温暖化を言うまでもなく、ここ日本で防寒の為に毛皮が必需品か、と言うと、
そうではないのは明らかだ。
でありながら、ファーを身に付けるとしたら、その動機は
“ファーを身に付ける事=オシャレ”、なる「ファッション感覚」
であり、
その感覚を満足させようとする欲
だと言える。
今も毛皮を、ファッションの為に身に着けている人は、件のVideoを最後まで見て、
そうまでしても“リアル・ファー=オシャレ”という考えは正しいのか、すべき事なのか、よく考えて欲しい。
皮を剥いでいるのは、ファーをファッションとして身に付ける事を、肯定する全ての“あなた”なのだ。
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