食前の祈り、共に祈る祈り、牧師の権威、とかナントカ(笑)

cotton1031pct2007-11-03


先日、礼拝後に軽く茶話会とゆぅ名の交わりがあったんだけど、食前の祈りに私は牧師先生に祝福を込めた食前の祈りをしてもらいたかったんだけどね!!


でも、敬愛して止まない(爆・病まない?)小石大魔神

「衆目の中で祈るのは………」

みてーな事言って、イワユル


“子羊の祈り”


になっちゃった。

子羊メェメェ、仔猫はニャー!

つまり、「各自めいめいに祈る」って事なんだけども、いつも思うんだけど、


他人の目を気にする位なら、クリは素でキチガイの集団に他ならないから、マジで。


言いたい事が山程あるので、上手く纏るか、いつもながらの言いっぱなしでオワルのか判らんが、取り合えず行ってみよかっ。


1)ぶっちゃけ、余程の大人数で、その端の人にもちゃんと聞こえる位の大声ででも祈らないと、ちょっとやそっとの人数による“共に祈る祈り”なんて


誰も注目しとらん


ですよ。それこそ自意識過剰ってヤツで(苦笑)


2)日本の牧師はステータスが一般に低いから、天から委ねられている、自分に着せられている「権威」について、甚だ軽く考えて、行使する事も少ない
私は今まで、日本クリ教育を受けたと思しき牧師先生方から、10数年の信仰生活の中で受けた祝福がホンの数える位の回数しかない。(※礼拝後の祝祷を除く)
ヘタすると、カトリックの神父様方から受けた祝祷の数と、どっこいどっこいなんじゃないか?(汗)

なぜ、

「事ある事に、カワイイ(プッ)信徒たちを祝福してやろう!」

という気持ちが無いのか、理解に苦しむ#


3)衆目の中で、キリスト・イエスの御名で祈り、共に食卓に与る、という恵みこそ、無言の路傍伝道と思っている。
駅の出口でトラクト持って待ち構えられるより、よっぽどいいと、未信者だって返って感謝だよ(ぇ)
(でもトラクトは配るよ・笑)←懲りる位なら元々クリになるか


4)何よりも、“祈る”姿は美しいんだから、悪霊の器として選ばれた者で無い限り、ある種の見る人の心を打つんだよ。

だから、ナゼしない!!?


それは、今日の日本の平均的信仰が事ほど然様に

「消極的で」

「無関心で」

「役に立たない」

シロモノに成り下がっている証左なのだ。


役立たずで、塩気の無い塩的信仰なんて、そりゃ人前で表明されても困ります!

(アレ?)