全人的に付き合えなくては、猫友ですらない、と思う今日この頃。

最近、煮詰まった思考ベクトル、メモ。

ベクトル:http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%83%99%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%AB/


猫を飼い始めてから、もンの凄く違和感を感じたものは色々ある。
その内の幾つかは、『対猫』としては“ノーマル”な人がドン引きする事柄もあるが、その辺りはほっときゃ追々出てくるとして(爆)、パッと言えるのは、


その1.ペットの猫の雌雄を、アニマルクリニックの受付の看護婦さんが「女の子、男の子」と言った事っ。


その2.関連だけど、飼い主を「パパ、ママ」あるいは「お父さん、お母さん」と言う事…(−−;慣れた(笑)


この2点は、本当に最初の“猫拾った”てんだか、“保護した”てんだか、その頃「長女」をクリニックに連れてった時の、言わばちょっとした


衝 撃


でしたね、えぇ。


「今日お連れになったのは猫の、女の子ですか?」と聞かれて、一瞬聞き間違いか?と思った位で、「ええ?!メスです!??」とかこっちがキョドッた程びっくりした。


メス、間違い?!みたいな(笑)


続けて、「じゃ、お母さんは診察室で待っていて下さい」とかって!!!


「いやあの、産んでません(心の声)」


てなもんで、「これがアレか!?お猫様、お犬様のバカ飼い主の世界か!!…いつの間にか仲間入り〜;」


やれやれ、

こうしていつの間にか、ズルズルと、そうなっているは思わない方法で


人は堕落するのですよ(爆)


その3.猫友(ねことも)なる存在


相手が“そうカテゴライズして掛かる方が私と付き合うのが楽”という思考なら、それに付き合うのが、ク○ッタレ(ぁ;)#クリスチャンとして正しいので##そうしますが###、正直私は部分的に付き合うのって、疲れるんですよね。何か、そこのトコだけ利用しているようでねぇ。

ユダヤ人には、ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである。律法の下にある人には、わたし自身は律法の下にはないが、律法の下にある者のようになった。

律法の下にある人を得るためである。 律法のない人には――わたしは神の律法の外にあるのではなく、キリストの律法の中にあるのだが――律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。

弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては、すべての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためである。<コリント人への手紙 9章20〜22節>

出来るかぁ!!(“ふりだし”に戻る)
orz

確かに、趣味のオトモダチ、ってアリだと思うんだけど、それでもある程度お付き合いが進んだら、猫の関係のお付き合いだとしても、その人の親族とか亡くなったら、それなり哀悼を表現すべきじゃないですか。それ位してもいいんじゃないですか。昨日今日の付き合いでもなかったら、それ位は良識の範囲だと思いませんか。

他人の生き方、とやかく言える立場じゃないですが、うん、これ糾弾、てほどじゃないか、えーと、


悪 口 ? (もっと悪い;)

だから、あらゆる悪意、あらゆる偽り、偽善、そねみ、いっさいの悪口を捨てて、今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけのない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救に入るようになるためである。<ペテロの第一の手紙 2章 1、2節>

なんーかねぇ、人の心、人情の機微が判らなくて、よく生き物の活動してくれるよなぁ;って人多いよ⇒カテゴリー「猫友」!


「猫友」はホント、困り者です。飼い切れなくて、ペット遺棄するヤツとか、避妊去勢は絶対しないで餌やりする人みたいに困り者です。

いや、そこまでじゃないな;そんなバカモノばっかりじゃないってば(笑)


さーて、本題に入ろっかなメモ♪


とにかく、ここ1年位で若干名の『猫友』なる存在には、人と人とのお付き合いについて考えさせられた。


結論は、私は全人的に付き合えなければ、付き合えない、あんまり価値、というか、面白みが無い、と思う。


猫は私にとって鎹(へー、カスガイってこう書くんだ・笑)にはならない。
猫によって修復される、癒される関係も実際ある!否定しない。


でも、普通に考えたら、猫友って、何?


人の付き合いに、猫カンケーねーし。


結局、人、結局、品性とか、その人の人格。


それがものを言うのであって、猫を挟んで、だからお付き合い、とか、お付き合い出来る、とか、私には正直、単調でツマラナイ世界だし、猫友になる前に、人として品性最低限のラインを先ず超えろ、と言いたい。
ハイそこ!人の事(綿)より自分省みる〜(−−)


猫はキッカケで良くて、猫ではなく、“あなた”なるものを見せて欲しい、と思う。


“あなた”は何?


“あなた”は誰?


そして“あなた”にとって、向き合う人は「“猫の”飼い主」なの?それとも「固有の誰か」なの?


“猫に付帯しているニンゲン”なんて、餌やりマシーンと変わらんじゃん。


猫、というフレームでしか、人の心、生活が見えない、見ようとしない、としたら、その人ってかなり失礼だし、肝心なトコが空っぽなんだと思う。あるいは猫一心に取り憑かれたか。


なんだかね、一つの目的で力を合わせている、って仲のはずが、その人のご家族が亡くなってもウンともスンとも感じない、哀悼を表明しない、っていう「猫友」って連中に、私はつくづく「人って寂しい存在ネ」って感じたよ。





「猫友」


要注意ワード。


私は「猫友」ではなく、「友」を大切にしたい。
「猫友」って結局“猫に付帯する人”みたいで、なーんか発展性無いって言うか。


まぁ、感性の違いでもあるが。



求む!「友」⇔「猫友」!!



イカス!全猫的スタイル