悲惨な思い出について、キリスト者の対応は。−含む、広島、長崎原爆体験など−
今週のメッセで、小石師が「辛い、悲しい、苦しい体験にしがみついていてはいけない」といった内容が含まれていたのだが、対処の方法が『忘れるように心掛ける』というのは、チと言葉が足らない?ように思えた。
そもそも「辛い、悲しい、苦しい」悲惨な体験、というものは、人生の道標のように、しっかりと、その体験以降の人生の方向性を指し示すべく、突っ立っているもの、しかも、交通ルールの標識よろしく、何度もしつっこく、
“ここから一時停止”
とか、
“ここで一時停止”
とか、
“ここでも一時停止”
とか、
“一時停止しないと、ボコるぞコノヤロー#”
という感じで現れる、ようなものなので、
こっちの全速前進したい気持ちを、まるで無視して突出してやがる、制御不能の立てカンバンである。*1
『忘れるように心掛ける』『忘れなさい』なんて“言ってみても”根本的解決にはならない、と私は考える。
では、人の、あるいは自分の、「辛い、悲しい、苦しい」悲惨な体験を、反対のものに昇華するにはどのようにすればヨロシイか。
キリスト・イエスが共に居た、その体験の最中には、キリストが愛し子のあなたの傍に居た、
それが真相で、真実なのだ。
それを伝えるのが方便だ。
ところが、肝心のキリスト 狂 教徒からして、それが判らない、漠然としている。
神の愛し子であるあなたが、奪われたのなら、それは神から奪ったのと同じ事、
神の愛し子であるあなたを、犯したのなら、それは神を犯したのと同じ事。、
神の愛し子であるあなたを、殺したのなら、それは神を殺したのを同じ事、
であるのだ。然り。
おお、私自身、こんな事書いている事すら『恐ろしいレベルの罪さ加減』と、気分悪いワ#
だから、あなたの苦しみを、リアルタイムで知っている、神、唯一の共通体験者に、心を打ち明けて、その心、辛い、悲しい、苦しい気持ちを委ねると良い。
神の神殿である、愛し子・あなたの体験した事を、リアルタイムで体験しているのは、神、主、イエス・キリストその方のみである。
神に全部、心ブチ撒けた上で、忘れるもテだし、あの体験あってこそ、と立ち上がるもヨシ、今一蹲って休むもよろしかよ。
―――と!! (と、って;)
ネガティブな体験に縛られ、拘束され、呪縛されるのは、全くもって、人生の無駄遣い。
しかし、ことキリスト者は、あらゆる人生の難問に応えられるだけのカードを持っていたいもの、と自戒を込めて考えた。
ここでは私自身がかなり問題、とかゆー点は置いておいてさ#
先の事どもを思い出すな。
昔の事どもを考えるな。
見よ。わたしは新しい事をする。
今、もうそれが起ころうとしている。<イザヤ書 43章18、19節>
神との対話の内にあってこそ、
本当の意味で“思い出さなくなり”、“考えなくなる”と思うのです。
祈りは力。
*1:交通標識はカンバンちゃう#