写真集「のらねこ。〜小さな命の物語〜」−何のことは無い、やはり猫で復活−

だってね、信仰人自身が生活アレコレで行き詰るって事も無いしね?

信仰人の日々の中で事で、心が騒いだり動揺したりしてどーのこーの、って、詰まる所は無いと言えるからねぇ。


自分にはどうしようも無い、それでも“立ち向かう事”に意義がある。
最悪、最低でも、相討ちに持ち込めればいいんじゃないか?

写真集:「のらねこ。〜小さな命の物語〜」


捨て猫の現実に焦点をあて、命の大切さを訴える写真家、中川こうじさんの写真集「のらねこ。〜小さな命の物語〜」(エンターブレイン、1260円)が28日、発売された。07年2月に出版された「のらねこ。」の第2弾。

 猫の写真を通じて小さな「命」の問題に気づいてほしいと、野良猫の生活を写真と文章でつづった。妊娠中に捨てられ、6匹の子猫を生んだ母猫の物語「公園で母になった猫」、公園に置き去りにされた2匹の猫を撮った「マイケルと黒い子猫」など4編で構成されている。

 ペットを飼う家庭は多い一方、飼えなくなって自治体などに「引き取られる」猫は年間22万匹以上(05年、環境省調べ)に上り、そのほとんどが殺処分になっている。中川さんは里親探しなど、野良猫を保護する活動を続けており、写真集の後書きでは「猫たちが人知れず死んでいくことにやりきれなさを感じ、レンズを向けた」と述べている。写真集の収益の一部は、野良猫を助けるために使うという。


ソース:http://mainichi.jp/select/wadai/graph/20080331/

ちょっと宣伝(笑)

まだ私も見てないけどー。


教会やら、信仰人は、ともすると、デカいビジョンだけは一端だけど、足元の事がオロソカになりやすい。

昔、ペットロスの友人に対して、未熟さゆえの大失敗をして以来、私は「牧師、教師、聖職者は尊敬、尊重はするが、絶対視と間違った期待だけはしない事」と悟っている。

100人、1千人に救いを、回心を、と意気込んでも、その内の1人の心の痛みをケア出来ないで、ナニがリバイバル#ナニが兄弟姉妹か、と私は言いたい。


“いつか”の大勢の仲間より、“たった今”の一人が大事だ。

“先々”の街中の救いより、“足元”の小さな命を助けたい。


私は時々、イワユル『兄弟姉妹』を冷ややかな目で見ている。

私の信仰において、私が気にしたり、心掛けたりする事が、下らない事か否かは、主の前に立った時にハッキリするし、私はこの点においてだけは、顔を真っ直ぐ上げていられる自信がある。


昔々、アシジのフランチェスコが動物や木々、植物に向かって、説教し、
「Brother Sun, Sister Moon」と星々に語り掛けたのは、イカレていたのでも、人が居なかったからでもなく*1、本当に深いレベルで、神の被造物と共に、神を讃えていたんだと、私は思う。

そんな次元に到達するのは、容易ではないので、無理解な解釈を述べる方がよっぽど簡単だし、楽だ。


私はと言うと、到達は不可能でも、人ならぬもの達とまでも、共に主を讃える方を選びたい、とそう思う。


動物と、植物と、山々と、岩々と、

月と、星と、太陽と、

夜と、昼と、朝と共に、


讃美の歌を、彼の方に捧げたい。


被造物は、実に、切なる思いで神の子たちの出現を待ち望んでいる。
なぜなら、被造物が虚無に服したのは、自分の意志によるのではなく、服従させたかたによるのであり、かつ、被造物自身にも、滅びのなわめから解放されて、神の子たちの栄光の自由に入る望みが残されているからである。

実に、被造物全体が、今に至るまで、共にうめき共に産みの苦しみを続けていることを、わたしたちは知っている。

<ローマ書 8章19〜22節>

*1:人少な杉で、と言うのは小石先生ですが、小石先生はこういうソフト面がテンでダメなんで(−−;先生方に得意不得意は、あるよ;