「神のクセに裁くのか」と言っている人が裁いている今日この頃。
昔、どこか誰かに、
「神様なら、そんな風に一方的に裁かないだろう。信じないなら裁くなんて、酷い神様だな」
なるご意見を拝聴した事があるが、『改心しない悪ならば、絶つしかない』と言う事であれば、いつまでたっても温存看過する方が、よっぽど酷い裁き(判断)だと思うのだ。
イワユル裁きにおいて、神と人と違いは、
ガマンし続けてきた時間の膨大な差であったり、
『〜しないと、○○なるぞ』という“警告”を、それはそれは、くどい程に事前に与えてくれる、くれないという違いであろう。
人の裁きは大概、
他者に対するガマンに欠けており、
警告ナシ、温情ナシであったりする事が多い。
それは神が、人に対して、「我に来よ、我は汝を求む」という切なる想いを抱いているのに比べて、心底を抉って分析してみれば、人は、人を、求めては居ないからだ。
人の“淋しさ、侘しさ”は、人には埋められないのを、無意識が知っていて、自分に対して、抱える空虚を埋めていくれるものではない、と判じると、捨てて次を探す、
これを繰り返すのだな、きっと。
等という、心の呟きを述べたところで、等価で受取る人の少なさに、
何気にウンザリしている私なのであった*1。
ウンザァ〜( ̄□ ̄♪ ←つか、謡ってる?;(笑)
*1:ガ、ガマンに欠けているゥ(爆)