日本人には人質思想?と言うものがあるんでないか、と。

cotton1031pct2007-11-27


何を書きたかったか、書くべきか、思い出した!(えー、今更ァ?!・笑)

なので、未来日記。と言っても、もうすぐ2007年11/26だから、ズレは僅かに一日だ。
安心したまぃ。


今から書く事は、個人の動向を指してドウコウ言うんじゃありません。*1


ペット関連で、呼応の依頼(マイルドにだけど)をしてたんですが、「ホニャララなので、関係にヒビが入ると今後の活動に支障が」という事で、申し訳を頂いた。

それはいいんです。その事は判る。その件について、現場を尊重した返信をもう済ませた。当然だ。


で、何書いてるか、と言うと、その時感じた違和感を、夕刻自分なりに消化したから備忘録、ナノダ。

なので、繰り返すけど、判断した人を糾弾してるんじゃーないよ、念の為!



私は感じた違和感…

こういう風景は、どっかで、何かで、幾度となく味わっている…



本当なら、


目的さえ同じなら、

それ以外の事でどうかと思う事は、お互い対等に指摘し合える仲


が健康な人間関係じゃないのか、という事。


誰であっても、自分の感情に障る事(恐らく)を言われた位で、共通の目的を無視して動向を決めるとしたら、その人は余りにも偽善的じゃなかろうか。


つまり、
実は「目的」は、「目的(そのもの)」でなく、「自分を誇りたい」という事ではないのか。


「活躍している自分」


「奉仕している自分」


「ボランティアしている自分」


「無償で仕える自分」


「情報提供する自分」


「何があっても懲りない自分」


「凄いぞ自分」


「大したもんだ自分」


最も、端から「目的」が異なる、という事なら、これ全ーーーーー部ムダっ、だから。

(−−;


続ける!妄想(あー、妄想かよ#)



だからさ、


例えば、医者が間違っていたとして、それを指摘すると、今後別件とか診てもらえなくなるかもしれないから、指摘出来ない、というのは、


人質取られているようなもん


でしょう。


医者に『患者を治すのが喜び』という目的があって、


患者に『治りたい』という目的があって、


純然と噛合っているならば、「先生、それちょっと違うんじゃないでしょうか」と言えるのが健全だと。


あー、何時もながら回りくどいけど、漸くココかって位の結論。つーか間イラネー(爆)


都会でも、田舎でも、多分、火星で暮しても、

日本人は、“自分の立場では言えない”とか、“お前の立場で何を言うか”って、


「善悪の基準では、一生物言えない世間」


で生きていく感じがする。


会社やら、学校でも、その個人の純粋なスペックより、評価する人間が好きか嫌いかで評価付けられているケース、あるよね、きっと。


「感情的になるなんて、大人気ない」というセリフは、殊更感情的な日本人が、巧みに自分達の感情的さ加減を覆い隠そうとする常套手段なんじゃないか。


まぁ私、日本人ですけどね、国籍は天国ですけども(笑・目出度いでしょ?)


兎にも角にも、


どんな縛りも受けずに、自由の内に活動する、


それが出来ないのはムカつくよな、って事ですよ。




あー結局またムカつく、ってオチですな!!ほっとけ!#*2



真理はあなたがたを


自由にします。


<新約聖書 ヨハネによる福音書8章32節より>

*1:ココ笑うとこだよ(爆)

*2:縛られている方じゃなく、圧迫している方にムカつく。だって制限受けている方は、純然と活動しているだけだ。悪くない。