教会、が偶像になったらオシマイだ。

件のタリバン・韓国クリスチャン拉致事件で、前教会の韓国人姉妹とメールのやりとりがあったんだけど、「これを機会に霊的な実家○○教会に戻ったらどうか」と、

風向きが厄介な方へ変わってきたので(苦笑)、今そちら方面はそー…っとしておいてます(なんじゃソリャ)(^_^;

人と言うものは、自分の中にある材料でものを捉えるので、自分に無い要素での解釈、説明をされても、なかなかピンと来ないものです。

(今までに無かった自分、というものに瞬間変わったりするとしたら、それは悪霊、もしくは聖霊の霊感によるものではないか、と私は思っている)


いっくら私が

「受洗前の求道者に代表祈祷をさせるなど、主は元より、我々をも舐め切っている!!#」

とか、

「無知が元とは言え、何千万円単位で信者、未信者の財をドブに捨てるような事をしたのが、半年も経つか経たないかで代表祈祷?!どこに示しが付いてそうなる!?#」

とか、言ったところで、


『愛が無い』


の一言で片付けられてしまうので、(それが何か?・爆)


「犬ッコロ(敢えて#)1匹の飼養も出来ないのに、私の霊の飼養が出来ますか##」


程度の理屈を述べるに止めるだけにしておきたいのである。
てか、どれも本音ですけど(笑)


一体主の血潮で聖められていない彼らがどう、我々の代表として礼拝前に執り成せるというのか?
取り返しの付かない事をしでかしたからには、粛々と黙って信仰を表明するしかないのではないのか?


尤も、これは私の『裁き』になってしまうので、それこそここいらで黙っていた方がいいのかもしれないが…


ただただ、黙って教会、教職者に“付いて行きさえすれば良い、正しい”という、「楽な方、楽な方へ行きたがる(解釈したがる)」性質(タチ)の同族(クリスチャン)には辟易する。


教会は人間が集まる所、人間には常に誤り得る可能性が大、って事、基本くらい弁えて欲しい。
そうすれば、「兄弟姉妹、牧師、教職者に腹も立ちません」(笑)


ところで、喫茶店よりも数多い教会から溢れ出て中東宣教に赴く、等と評されてしまう韓国だが、お隣我が国ではゲンナリするほどー、


「コレと言った教会が見つかりません」


教会はいつでも奉仕が出来るよう、地元の教会に限る、という考えだが、どうやら今の私には、その『地元の教会』とやらが、聖書信仰は間違いないが、と同時に大正創立だか何だかで、「その伝統を守り、受け継いでいく想いが必要」とかゆー事で、早くも及び腰のワタクシ。


伝統、言われてもなぁ。


ぶっちゃけ、私ゃ「殉教した△△が××した所以で創立」とか言われても、恐らく確実に“引く”


「…で?」


とか聞いちゃいそう(爆)、「…つまり?」とか(かなり失礼の極みv)


私の罪の身代わり、イエス様だもんなぁ。
突き詰めちゃうと、殉教した人、主を一心に見ててるしな、お互いがお互いを見てないよ?
殉教した人も、私も、見てる、ったら主イエスだよ?


関係ねぇよな、こっち見習うところ、あってもさ(笑)


まぁアレだ、“時が良くても悪くてもしっかり”やれるよう祈りましょー。間延びー(笑・余裕かオイ)