『こいぬのうんち』踏まないように要注意!−考察・再−
参考:いのちのことば社
うんにゃがにゃーニャンニャンニャン♪
て、言いながら猫トイレ掃除している私は、
四十路カウントダウン〜( ̄^ ̄) 威張れるか!;
『こいぬのうんち』
「僕のいのち…ちゃんと意味があったんだね」
作・韓国クリスチャン絵本作家:クォン・ジョンセン。
道端に捨てられた「こいぬのうんち」は汚いと言われ、皆の嫌われもの。
「誰からも必要とされない」と嘆く「こいぬのうんち」は、タンポポとの出会いで、変わっていくのだった…
で、『GOSPEL TV倶楽部 2008年春号』の紹介には、
“タンポポが美しい花を咲かせるシーンでは、私たちを愛するがゆえに犠牲となったイエス・キリスト、その犠牲によって新しいいのちが生み出されたことを思い出させてくれ、…”
とある。
まー身内向けに端折るのはアリだけど、回心して間も無かったりすると、救われ方によっては、
『なぜキリストの犠牲が、私に必要なのか』
が見えてこないじゃん。
犠牲、とか、愛、とかって、いいよねー、アバウトでさーぁ( ̄ー ̄) ←遠い目……;
こういう言葉聞いても、詰問調じゃないしね、責められ感もないままに、ただ、
曖昧なキリスト教漬け
になって、『なんとなくクリスタル』ならぬ、『なんとなくクリスチャン』
これも略して“なんクリ”(爆)
キリスト教の芯というものは、
己の罪の清算
について、であって。
なにゃ、もや〜っと、愛?みたいな、犠牲?みたいな、赦し?みたいなのの以前に、
厳然と
自分の罪と向き合わなくちゃならない。
これが出来ない、受け容れられない、ならば、
出会う為には、「自分の罪」を認める必要がある。
「自分の罪なる性質」を認める作業が要る。
この、「自分の罪を清算する、主にあって、して頂く」って事が骨子、眼目であって、
“天国行く”とか、“生活が守られる”とか、“病気が癒される”とかは、オマケと言ってもいい*2。
最近、イラッと来る『クリスチャンもの』って、“まったりぜんぶおーらぃ”みたいで、
しかも、塩味効いてないって言うか、
世間に耳障りの良い事ばっか書いてる感じがする。
いーじゃねーか、
上等だよ。
『罪』について、また、その『罪』と自分とキリストとの関係性を、曖昧に表現するのは、もはやキリスト教ではない。
とゆー事で、『こいぬのうんち』は、スカトロが喜ぶネタ、みたいなもん、って事で
って、思っちゃったゾ!(b^∀’*) (爆)通じないって;